◆2007/9
原体験・原風景と想像力
「語りからみる原風景−心理学からのアプローチ」呉 宣児著・原著
わたしたちダイナアーツは、日常的に、さまざまな企業の方々とさまざまなプロジェクトワークをご一緒させていただいています。
プロジェクトワークは、参集されたメンバーのお一人おひとりが、高位かつできるだけ均質なコミットメントをもって、課せられたミッションに対して、求められる成果を求められる期間の中でアウトプットしていく協働の作業です。 ダイナアーツがこれまでご支援させていただいてきたプロジェクトでは、参集されるメン
バーの方々は、
同じ企業に勤めておられるとはいえ、通常、皆さんそれぞれに、異なるバックグラウンドを持ち、 営業や管理、企画や開発系というように異なる仕事に従事され、異なるキャリアを重ねてこられている場合が多いようです。そうした方々と求められる成果をつくるために協働(‘響動’)する場面
(わたしたちの仕事においてはコレがとてもenjoyableなプロセスなんですが・・・)、 その中で繰り広げられる‘交換活動’においては、求められる成果出力に直接関係・関連するさまざまな材料・素材が産み出されるのですが、同時に、実は、とてもさまざまな‘発見’に出会います。
たとえば・・・、ある一つの見解を巡ってヒートアップしている議論・・・そんな光景を想像してみてください。メンバーの中でお二人ほど・・・お互いにツバを飛ばしながらご自身の意見を興奮状態で話されています。
一見して噛み合わっていない、もはや合意なんて程遠い・・・、下手をすると一触即発・・・という場面です。しかしそこで、冷静に二人の論点をよ〜く聴いてみると・・・、なんで言い争っているのだろう、実はこの二人、客観的にみてみると、ほとんど同じ主意、同じことを主張しているではありませんか・・・。
こんな場面に遭遇された経験、皆さんはありませんか?
そもそもお互いがお互いの話をよく聴いていない、理解しようとしていないということが原因であることは誰でもおわかりになると思うのですが、ある一つの事柄を考察する、分析する上での‘切り口’や、アプローチの仕方、
結論に至るプロセスの構成の仕方にお二人それぞれの異なる思いがあるがゆえに、総論や結論はとても似通ったものであるにせよ、中核となる事柄の外堀の部分で言い争いとなってしまっているというのがこのケースだと言えるでしょう。
多くの場合、こうしたケースに出会うと私はよく、‘言い争い’をされておられる方々、それぞれの方の‘バックグラウンド’を想像します。ここに至る前に、どのような仕事をされてこられたのだろう。どのようなご経験をされてこられたのだろう、そして、どのようなご苦労をされてこられたのだろう・・・といった具合にです。
興奮してお話しされている中、妙なタイミングで仲裁に入りますとお互いにしこりを残したりすることがよくありますので、私は、その興奮状態がひとしきり落ち着くまでとりあえず黙って見守ることにしています。(ひどい場合にはその興奮状態は小1時間ほど続いてしまいますので)そんな時、私は、「何が言い争いのポイントになっているのだろう」
「なぜ言い争いになるのだろう」と考えながら、ついそれぞれの方の‘余計なこと’まで想像を巡らしてしまうことがあります。‘余計なこと’というのは、いわば、その人の原体験、原風景とでも言うべき事柄です。
原体験とは、「生物やその他の自然物、あるいはそれらにより醸成される自然現象を触覚・嗅覚・味覚をはじめとする五官(感)を用いて知覚したもので、その後の事物・事象の認識に影響を及ぼす体験のこと」(小林辰至、雨森良子、山田卓三/日本理科教育学会研究紀要Vol.33 No.2 1992)
と定義されています。
原風景とは、「過去の体験であるが、心に強く残っており、しかもそれは単なる過去の経験ではなく、現在と未来の自分にとって何らかの支えになっている忘れられない風景、影響を与える風景」呉宣児「語りからみる原風景: 心理学からのアプローチ」萌文社 2001
と説明されるものです。
よく引き合いに出される例をお示ししましょう。
昔あるところに、3人の盲目の子どもたちがいました。ある日、その子どもたちは生まれてはじめて象に接することになりました。昔々のことですから、大人たちも実は象なんて動物、話にも聞いたこともなく、どんな動物なのか、子どもたちに(長い鼻を持つとても大きい・・・というような)話をしたこともありませんでした。
子どもたちは不幸にも生まれた時から目が見えませんでしたから、象などという動物はまったく得体のしれない怪物だったことでしょう。
一緒にきた象遣いが子どもたちに「おとなしいから怖がらないで静かに、1回だけ触れてごらん。そして、象ってどんな動物か話してごらん。」と言いました。
子どもたちの中の一人が恐る恐る象の尻尾に触りました。そしてその子は言いました。
「先っぽにごわごわとした毛が生えてにょろ〜っと長いよ。」
もう一人の子も恐る恐る近づいていって象の足に触りました。そしてその子は、
「すっごく太くてガサガサした手触りだよ。」
別の子は、怖くて近寄れなかったのですが、
「もそもそ動いていて、とっても大きそうで、なんかちょっと臭いよ。」
さて、この3人の子どもたちは、象をどのような動物だと思い描いたでしょうか。
子どもたちが口にした事柄・・・、彼ら彼女らにとっての象のイメージですし、彼ら彼女らの象の‘原体験’です。そして、触れた部位から想像される事柄、頭の中で浮かんだ絵が、彼ら彼女らにとっての象の‘原風景’であるわけです。
彼ら彼女らの感じてしまった、脳裏に描いてしまった象・・・間違いでしょうか。
とかく私たちは、それを間違い、正しくない・・・としてしまいます。確かに、象という動物を正しく表現するという意味ではとても不十分ではあるでしょう。しかし、この3人の子どもたちの原体験と原風景・・・、それ自体を否定することは誰にもできないはずです。
もう一つ。富士山を頭の中に思い描いてください。ある人は、北斎が描いた赤富士がすっと浮かぶかもしれません。ある人は真っ青な空をバックにくっきりと浮かぶ夏の富士山かもしれません。
そして、登山愛好家の方にとっては、真っ白に冠した荘厳な冬の富士山、はたまたゴツゴツとした山道・・・かもしれません。日本人にとって誰もが思い描くことができる富士山。でもその一つひとつはみんな違う富士山でしょう。それは富士山じゃない、これが富士山だ・・・。そんな会話はまったく不毛ですね。原風景とはそうしたものです。
先の‘言い争い’の話に戻ってみましょう。議論・ディスカッションというのは、発する言葉が唯一のメディアです。そしてその言葉によって、参加メンバーが自らの意思や考え、見方・見解を示します。 そこに使われる言葉・表現は、すべてその人の経験・体験を通じて、表現のための道具としてその‘人となり’と一体化したものとして醸成されてきたものです。
また、その言葉によって表現される見方・考え方・とらえ方も、その人の経験・体験を通じて形成されてきたものです。 そして、言葉もそれによって表される内容も、その根本にはその人の原体験と原風景があるのでないかと思っています。したがって、言い争ってしまうということ・・・往々にして、その言い争いの深因には、この原風景と原体験の違いがあるように思えてしまいます。
そもそも人間は一人ひとり違います。その人それぞれの原体験と原風景があります。その中身を想像してみてください。あくまで想像です。ですから多くの場合真実は違うかもしれません。でもかまわないですから想像してみてください。大前提は、自分自身とは異なる原体験と原風景を持っておられるということをスタンドポイントとして持った上でです。
仕事柄、はじめてお会いする方々、1年間でおよそ500〜600人ぐらいになります。
お忙しい時間を縫ってお会いする方でわずか10分程度の方もいらっしゃいますし、延々とプロジェクトミーティングでご一緒する方もおいでです。
「この人ってどんな人なんだろう。どんなご経験を経てこられて、どんなお考えをお持ちなんだろう。」
仕事そのものに直結する論点で議論させていただく場面ではもちろんのこと、会食や、はたまたカラオケをご一緒したりする時も・・・、私はいつもその方々お一人おひとりの原体験や原風景を‘想像’させていただける機会をエンジョイしています。
なぜって、その人それぞれをきちんと理解させていただきたいと思っているからです。理解のために想像する。想像を重ねながら理解を深めていく。さまざまな難題にプロジェクトワークによって立ち向かっていく時、命題が難しければ難しいほど、メンバーのお一人おひとりに対するそうした理解の深耕はとても大切だと思っています。
それなくしては、本当にお役に立てるご支援などできないと考えているからです。
たまに、ご自分の方針・ご自分の方法をとても頑なに主張され、それに少しでも異論めいた話がなされると激高される方がいらっしゃいます。
つい最近もそんな方にお目にかかりました(瞬間湯沸かし器のように激高された後、おそらく自分でも言い過ぎてしまったとちょっと反省されたのでしょう。妙におとなしくなって人の顔色を伺おうとされておられる方でした)。おそらくご自分の積み重ねてこられたご経験や体験にとても過大な自信をお持ち(拠りどころとされている)か、
あるいは、過度に頑ななご自身のありようから、ご自身では腑に落ちない、納得できない何か不遇を経験されたことがトラウマにでもなっておられるのかもしれません。その時私が思いを巡らしたこと、おわかりだと思いますが、その方の‘これまで’を勝手に想像してみました。(その方の)発言・態度の原点にはどんなことがあるのだろう。
何がそのような発言や態度の根本となっているのだろう。この‘想像’は、脈絡や論理を単に表現された言葉や文章から読み解くということではありません。その方のものの見方や考え方を形成・醸成するに至った経験や体験、ひいては原体験・原風景までをも、先入観をできる限り廃して、‘仮説’として想像するのです。
そして、その仮説を通じて今後どのようにその方と接し、その方と対話していくかを考えます。仮説は、これからのその方とのかかわりの中で検証されていくことでしょう。その繰り返しを通じて、私はその方をどう理解することができるか、ずっと、その想像は続けます。
そうした‘想像の積み重ね’を通じて、わたしたちはどうお役に立たせていただくことができるかを考えます。求められるミッションや成果目標は似通ったものであろうとも、すべてのプロジェクトワークで、アウトプットはプロジェクト毎にすべて異なります。
おわかりのように、経験・体験を異にするメンバーによって、その中で成される議論は当然異なりますからアウトプットも異なってくるのです。わたしたちの仕事では、いわゆる定石や理論、その通りに進められることなど一つもありません。プロジェクトにコミットする方々の違いが成果の違いに直結してくるのです。
したがって、わたしたちのような仕事・・・、ありとあらゆる場面において関わる人たちをきちんと理解する努力を行いながら共感と協働をつくり出していく、その質を決定づけるとても重要な要因は、わたしたち自身に問われる‘想像力’なのだと考えています。
蛇足ですが・・・かくいう私、以前、妻との会話でひどく傷ついたことがあります。
20代のお若い方は別として、オジサン世代の多くの方々にとっては名曲となっているテレサ・テンの「つぐない」という曲があります。カラオケでこの曲をめちゃくちゃ上手に歌われる女性には惹かれてしまう方も多いのではないかと思いますが・・・。
私も、この歌自体、とてもステキだなぁ〜と思います(車のCDチェンジャーの中にはテレサ・テンのベストが入っています)。ある日、妻を助手席に乗せて車を運転中、うっかりこの「つぐない」をかけてしまった時、妻が話しかけてきました。
「この曲の歌詞って、どう解釈する!?」
ふいを突かれた私は、「えェ〜!?」と言葉に詰まってしまった後、つい・・・
「この(歌詞に出てくる)女の人って、下手するとストーカーみたいだし、びしょびしょにウエットな感じで気持ち悪いね〜」
と言ってしまいました。字面からは、西陽を直接受けて夏なんか耐えられないほど暑くなってしまいそうな、ものすごく貧相なアパートの一室で、立ち去ったコロンつけ過ぎ男の‘残り香’や、おそらく男がブチ切れて手元にあった灰皿か何かをぶん投げた時にでもできてしまった壁の傷を見て、
あれやこれやと出てってしまった男を未練がましく涙を浮かべて・・・なんて、正直私にとっては、できれば二度とお会いしたくない女性の典型だと言ってしまったわけです。
妻は、あきれ笑いをしながら、「一節一節が、それを聴いた人たちの脳裏にとても絵画的な光景をイメージせしめ、そして、その絵の中でたたずむ女性の表情や移りゆく心を浮き立たせているとても上手な歌詞」だと言うのです。
「窓に西陽があたる部屋は・・・」というくだりからはどうのこうのと、まるで高校生の時に現代国語の先生がやってくれたような素晴らしい文章読解をした上で、確かにとてもウエットな女性でしょうが、女性の深い愛とやさしさをとても上手に表現している歌詞だと妻は解説してくれました。
そんな解説など私は思い描いたこともなく・・・シュンとしてしまった私に妻は、まるでこの歌詞に出てくる女性のような人とのとんでもないおつき合いが‘原体験’としてあったんじゃないの!?と思いながら言ったかどうかわかりませんが、
「なんて女心のわからない人なんでしょう。」とトドメを刺してくれました。
久しぶりの妻とのドライブ、彼女の類まれな読解力・・・ならぬ、想像力に敬服し、自分自身の想像力の貧困さにうなだれてしまうことになった出来事でした。
わたしたちの仕事は、プロジェクトに参加される方々お一人おひとりと、ならびにメンバーとメンバー…の中に生まれる対話(Dialogue)を材料・素材として組み上げていくプロセスをお手伝いしています。
当然、わたしたち自身のプロとしての企画・開発や具体化に要する専門性を頼りにしていただくことは前提ですが、同時に、仕事を進めていく上で必須の相互理解と相互研鑽・・・、お互いをメンター(Mentor)として認め合い、お互いがプロテジェ(Protege)として高め合う場づくりをとても大切にしています。
ご一緒にそんな機会をつくってみませんか。是非、一度、お気軽にダイナアーツにお越しになってください。
(加藤)
|